最近、都内はめっきり寒くなってきた。
コンクリートジャングルの中では日差しだけで温まる部分も少ないからか、空っ風が吹く中で歩く自分の肌が金属のように冷えることを感じられる。
肌に風が当たるとき、私は故郷の白い街を思い出してしまう。
生まれも育ちも北海道だから、道産子。
そんな私の記憶には、釧路湿原の真っ白な景色と、小屋の天窓から空を羽ばたく丹頂鶴の姿が1枚の写真のように焼き付いている。
人生を過ごしてきた中で、「あれほど自然でしか生まれない美しさはないのだろうな。」と思い出すたびに、小さい時から変わらない自分の感性を好きになれる。
雪は音を吸収するというのは有名だと思う。
ふわふわの新雪の上に、頭も身体もすっぽり埋まった時。
自分の心臓の音と、息と、雪と身体が擦れ合う音しかしないのだ。
そこには自然と自分しかいないし、雪に遮断された世界の音が遠くのほうに感じる。
道路を走る車の音、カラスの鳴き声、近くで雪かきをしている人の音。
ぱっと起き上がると、世界はすぐそこにあることに気づく。
そうやって、私は自然がすぐ近くにあることを知ってきたのだなと、この歳になると感じる。
この文章を書いていて、ふと思った。
私が大好きな石垣島の海でも、自然を感じたことがある。
頭まで水に浮き浸ったとき、自分と自然の境目がなくなるのだ。
海の中ではコポコポ何かの音がしていて、太陽の熱で暖められた水底の砂がサラサラと鳴っている。
自分は生きているのではなく、ただ生かされているだけなのだなと感じるしかなかった。
きっと、自分が少しも未練なく自然に戻ろうと思えば、戻れてしまうのだと思う。
人間ってそれくらいただの生き物なのだ。
そんなことを考えるのは、いつも決まって皿洗いをしてるとき。
冬でなかなか温まらない冷水に当たった手と水の音で、今日も北と南の自然を想うのだ。